今年のおすすめの本
今年もわずかとなりました。おすすめの本をご紹介します。
年初からずっと自費出版の本の内容の見直しをしていましたので、1タイトルだけご紹介します。
俳優修業(第一部 第二部) スタニスラフスキー著 山田肇訳 未来社 1975年
元陸上選手の為末大さんがお薦めしていた本です。第二次大戦前の旧ソビエトの俳優学校での授業内容で、第一部は内面的なこと、第二部は発声、演技など外面的なもの、2冊とも約400頁にわたって書かれています。とても古い本ですが、内容は現代にも通づると思います。広島県立図書館でお借りして読みました。俳優業とは縁がありませんが、人前でお話する「講師」、大勢の観客を前にする「アスリート」などの職業の方には参考になること盛りだくさん。以下は気になる文章の抜粋です。
「俳優を戯曲の始めから終わりまで導いていく、その内的な努力の線を、我々は、コンティニュイティとか、貫通行動とか呼ぶのである。この貫通線が、戯曲のすべての小さな単位と目標とに電流を通じて、それらを超目標の方へ向けるのだ。そうなってからは、それらはみんな、共通の目的に奉仕するのである。」(第一部 第十五章 超目標 401頁)
「情緒で熱せられ、意志に満たされ、知性によって導かれるところのエネルギイというものは、重要な使命に携わる使節のように、確信と自負とを懐いて動くものである。」(第二部 第五章 動作の柔軟さ 72頁)
「我々の知性に及ぼす直接の効果は、思考を喚起するところの、言葉、テクスト、思想によって達成される。我々の意志は、超目標により、他の目標により、行動の貫通線によって、直接に動かされる。我々の感情は、テンポ・リズムによって、直接に働きかけられのである。」(第二部 第十二章 物言いとテンポ・リズム 372頁)
「我々が他人と言葉を交わす場合には、我々はまず、心の眼の網膜に映じた言葉を見て、それから、そうやって見たものについて話すのである。もし、我々が他人の言うことを聴いているのならば、我々はまず、人の言っていることを、耳を通じて受け入れ、それから、我々の聞いたことの心的映像を作る。・・俳優にとっては、言葉とは、単なる音なのではない、それは、イメイジを喚起することだ。だから、舞台で、言葉を交わす場合には、耳に向かって話すよりは、眼に向かってすべきである。」(第二部 第五章 イントネイションと休止 174頁)
「諸君が物言いの本当の力が必要なのであったら、ヴォリュームのことは忘れたまえ、そして上がったり下がったりする抑揚と、それから休止とを思い出すことである。」(第二部 第八章 インとネイションと休止 221頁)
「ある役を百回目に演ずる際に、これから起ころうとしていることを忘れるにはどうしたらいいでしょうか?」「そんなことは、できないし、またする必要がない。・・演ぜられる人物は、これから先のことは知るべきではないにせよ、依然として役にとっては、一々の現在の瞬間をより十分に味わい、より十分にそれに身を任せるようにパースペクティブ(perspective 視点)が必要なのである。ある役の未来は、その役の超目標だ。人物をそれに向かって動き続けるようにさせたまえ。もしも俳優がそれと同時に、役の線全体を一瞬思い出すならば、それでなんの害もないであろう。」(第二部 第十章 人間形成のパースペクティブ 273ページ)
「あらゆるものが、パースペクティブと行動の貫通線と、この二つの要素のために起こるのだ。この二つは、創造の、芸術の、演技への我々の最も重要な意義を体しているのである。」(第二部 第十章 人間形成のパースペクティブ 277頁)
「その第一は、・・諸君の知っているように、能動性の原理であり、我々は人物のイメイジや情緒を芝居にして見せるのではなく、役の形象や情緒として行動するのだ。・・第二は、プーシキンの有名な言葉で、これは、俳優の仕事が、感情を作り出すことではなく、ただ、そこでは真の感情が自発的に発せられるような、与えられた環境をつくりだすことだけだ。・・第三の基礎は、我々自身の自然の有機的な 創造で、これを我々は、次のような言葉で表現する。意識的技術を通じて、芸術的真実の潜在意識的創造へ。我々の演技への近づき方において追求される主要目標の一つは、有機的自然とその潜在意識との創造性に対する、この自然な刺戟(しげき)なのである。」(第二部 第十五章 習得したことの図式 414から415頁)
「ちょうど完璧な詩作品には、余計な言葉が一つもなく、詩人の芸術的計画にとって必要な言葉だけしかないように、役のスコア(楽譜、演技)には、一つとして余計な情緒があってはならず、ただ貫通行動にとって必要な情緒だけでなければならない。一つ一つの役のスコアは、圧縮されなければならず、それを伝達する形式も同様で、その具体化の、鮮明で、単純で、抜き差しならない形式が見出されなければならないのである。一人一人の俳優の中で、すべての役が有機的に成熟して、生きてくるばかりでなく、また全ての情緒が余計なものを剥ぎ取られたときにのみ、情緒がすべて結晶し、寄り集まって一つの生きた接触をなしたときにのみ、それらが上演の全体的な調子、リズム、タイムの中で互いに和合しあったときにのみ、戯曲は観客に提供できるのだ。」
「上演を繰返す間は、・・機械的な反復があるばかりだということを意味するものではないのである。それどころか、すべての上演が彼に創造的な条件を課すのである。彼の精神力のすべてがそれに参加しなければならないのだ。なぜならば、そういった条件においてのみ、俳優は、彼らの情緒によって相互に影響し合う、すべての生きた神経質な人間におけるように、刻々に彼の中に起こりかねない、気まぐれな変化に役のスコアの創造的に適応させうるのだし、そうしてのみ、彼は観客に、戯曲の精神的内容のなすところの、言葉では表現できない、あの眼に見えぬ或るものを伝達しうるのだからである。そして、この或るものこそ、演劇芸術の実質の根源にほかならない。」(第二部附録 演技と演出 474から475頁)
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